内側から見るUNDECORATED
ブランド名にある“飾らない”という意味そのものがコンセプトになっている「UNDECORATED」。 現在は、会社代表でもあり「yoshiokubo」を手掛けている久保嘉男のもとでアシスタントをしていた河野貴之がデザイナーをつとめています。
自ら久保にリブランディングを提案し、2016年にデザイナー交代という形でブランドを引き継いだ河野。内側からみる「UNDECORATED」はどんなブランドなのか、数回にわたってお伝えしていきます。
――まずは河野さんのキャリアについて。「UNDECORATED」を引き継いで5年を越えようとしているところですが、もともとデザイナー志望だったのでしょうか?
河野:そうです。私の父親もデザイナーで、小さい頃から「デザイナーになりたい」という想いが強くありました。ただ、「人生の夏休みだと思ってもいいから、4大だけは出たほうが良い。そのあとは何をしてもいいから!」という父親の説得があり、4年制大学で経営学を学びました。デザイナーさんは、服飾の専門学校を卒業されている方が圧倒的に多いので、少し珍しいかもしれませんね。
大学を卒業するころ、「やっぱり専門学校へ行くか、いっそ海外へ留学するか、どの道に進もうか」と何度も考えたものです。大卒で22歳。自分としては早くデザイナーとして独り立ちしたかったので、足踏みしていられない。そこで専門学校や留学を諦め就職することを決断しました。
――将来がはっきりしているから、最短距離で夢に近づきたかった、というわけですね。 ただ、日本にもたくさんブランドがあります。どうして「yoshiokubo」を選んだのでしょうか?
河野:大手アパレルに入社できても、きっと経験のない自分は販売員として働くところから始めないといけない…。最初から服づくりに携わるために自社店舗のないブランドをひたすら探しました。当時は公式サイトがあるブランドはそれほど多くなかったので、情報源はセレクトショップや、ファッション雑誌からブランドを探して「店舗があるかどうか」などについて、電話で問い合わせていました。以前から異素材ミックスとカッティングが面白いなーと思っていたブランドをBEAMSで見つけて。それが「yoshiokubo」だったんです。
先日、久保について語る機会があったので、その記事(久保嘉男は「エネルギーのかたまり」)でも触れましたが、面接の時から「いつか自分のブランドをやりたい」ということだけはしっかり伝えました。 それで、2008年に「yoshiokubo」で働くことになったわけです。
――入社してからはどんな日々でしたか?
河野:メンバーは私を含めて4人。入社前の想像以上にスタッフが少なかった。(笑) 久保さんの自宅兼オフィスで毎日夜中まで働きました。人数が少ないということもあり、雑務から生産、営業や出荷業務まで服が出来上がり店舗に卸すまでの全過程に携わることができ、学び多き毎日でした。
今思い返すと、この時に「服作り」をしっかり学んだのだと思います。デザインのイメージがどれだけ素晴らしくても、実際にそれを「良い服」として仕立てられなければ意味がないですよね。だからこそデザイナーは、素材のこと、仕様のこと、またデザインと素材のバランス、どういう過程で服が出来上がるのかとか、本当に色んなことを知識としてこと細かく全て知っておく必要があると思っています。そうした服づくりの基盤となる根っこの部分を学びました。
――そうやってデザイナーになっていったんですね。 では、どのタイミングで「UNDECORATED」のデザイナーになったのでしょうか?
河野:ブランドを引き継ぐことになる3年ほど前から、「yoshiokubo」と「UNDECORATED MAN」の企画にも本格的に携わり、久保にデザインを提案していました。
振り返ると久保に出さなかったものも含め、描いたデザインは毎シーズン300枚以上だったと思います。現在もそうですが、大体ワンシーズンでノートが1冊は無くなります。
今考えるとその頃は「久保に認められたい」という想いが強く、久保の好きそうなデザインや売れそうなデザインばかり提案していたように思います。もちろんその後何度も修正を重ねて、世に出る時にはしっかりと自分でも納得のいくものになりました。
――初めてデザインを提案した時はやっぱり緊張されたものですか?
河野:そこは恐れずいきました。(笑)企画に携わり始めたころから、久保から、「デザイナーになった途端、世界中のどのブランドとも同じ土俵で勝負する、という意識を持たないとダメだ」と何度も言われていました。だから、恐れずにいけたんでしょうね。
そして2016年秋冬コレクションから「UNDECORATED」を引き継ぐこととなった河野。
次回は、リブランディング背景やコンセプトづくり、服づくりの哲学、「飾らない」という意味や想いについて、お伝えします。
自ら久保にリブランディングを提案し、2016年にデザイナー交代という形でブランドを引き継いだ河野。内側からみる「UNDECORATED」はどんなブランドなのか、数回にわたってお伝えしていきます。
――まずは河野さんのキャリアについて。「UNDECORATED」を引き継いで5年を越えようとしているところですが、もともとデザイナー志望だったのでしょうか?
河野:そうです。私の父親もデザイナーで、小さい頃から「デザイナーになりたい」という想いが強くありました。ただ、「人生の夏休みだと思ってもいいから、4大だけは出たほうが良い。そのあとは何をしてもいいから!」という父親の説得があり、4年制大学で経営学を学びました。デザイナーさんは、服飾の専門学校を卒業されている方が圧倒的に多いので、少し珍しいかもしれませんね。
大学を卒業するころ、「やっぱり専門学校へ行くか、いっそ海外へ留学するか、どの道に進もうか」と何度も考えたものです。大卒で22歳。自分としては早くデザイナーとして独り立ちしたかったので、足踏みしていられない。そこで専門学校や留学を諦め就職することを決断しました。
――将来がはっきりしているから、最短距離で夢に近づきたかった、というわけですね。 ただ、日本にもたくさんブランドがあります。どうして「yoshiokubo」を選んだのでしょうか?
河野:大手アパレルに入社できても、きっと経験のない自分は販売員として働くところから始めないといけない…。最初から服づくりに携わるために自社店舗のないブランドをひたすら探しました。当時は公式サイトがあるブランドはそれほど多くなかったので、情報源はセレクトショップや、ファッション雑誌からブランドを探して「店舗があるかどうか」などについて、電話で問い合わせていました。以前から異素材ミックスとカッティングが面白いなーと思っていたブランドをBEAMSで見つけて。それが「yoshiokubo」だったんです。
先日、久保について語る機会があったので、その記事(久保嘉男は「エネルギーのかたまり」)でも触れましたが、面接の時から「いつか自分のブランドをやりたい」ということだけはしっかり伝えました。 それで、2008年に「yoshiokubo」で働くことになったわけです。
――入社してからはどんな日々でしたか?
河野:メンバーは私を含めて4人。入社前の想像以上にスタッフが少なかった。(笑) 久保さんの自宅兼オフィスで毎日夜中まで働きました。人数が少ないということもあり、雑務から生産、営業や出荷業務まで服が出来上がり店舗に卸すまでの全過程に携わることができ、学び多き毎日でした。
今思い返すと、この時に「服作り」をしっかり学んだのだと思います。デザインのイメージがどれだけ素晴らしくても、実際にそれを「良い服」として仕立てられなければ意味がないですよね。だからこそデザイナーは、素材のこと、仕様のこと、またデザインと素材のバランス、どういう過程で服が出来上がるのかとか、本当に色んなことを知識としてこと細かく全て知っておく必要があると思っています。そうした服づくりの基盤となる根っこの部分を学びました。
――そうやってデザイナーになっていったんですね。 では、どのタイミングで「UNDECORATED」のデザイナーになったのでしょうか?
河野:ブランドを引き継ぐことになる3年ほど前から、「yoshiokubo」と「UNDECORATED MAN」の企画にも本格的に携わり、久保にデザインを提案していました。
振り返ると久保に出さなかったものも含め、描いたデザインは毎シーズン300枚以上だったと思います。現在もそうですが、大体ワンシーズンでノートが1冊は無くなります。
↑デザインを描きとめているノート
今考えるとその頃は「久保に認められたい」という想いが強く、久保の好きそうなデザインや売れそうなデザインばかり提案していたように思います。もちろんその後何度も修正を重ねて、世に出る時にはしっかりと自分でも納得のいくものになりました。
↑デザインは人体 (写真左;鉛筆)→服の下書き(真ん中:無印シャープペンシル)→服の仕上げ(右:ボールペン)の順で描きます。
――初めてデザインを提案した時はやっぱり緊張されたものですか?
河野:そこは恐れずいきました。(笑)企画に携わり始めたころから、久保から、「デザイナーになった途端、世界中のどのブランドとも同じ土俵で勝負する、という意識を持たないとダメだ」と何度も言われていました。だから、恐れずにいけたんでしょうね。
そして2016年秋冬コレクションから「UNDECORATED」を引き継ぐこととなった河野。
次回は、リブランディング背景やコンセプトづくり、服づくりの哲学、「飾らない」という意味や想いについて、お伝えします。